木山 幸輔人文社会系 助教

担当されている授業について教えてください。
学類1年生向けに担当している「法学概論」では、法学の一般的な考え方などを教えています。例えば憲法や刑法の基礎とか、いわゆる法的三段論法などの法学の基礎的な思考ですね。社会学類で主に担当しているのは法哲学でして、例えば正義などの価値に関わる法価値論という分野、あるいは政治学、経済学、社会学と法哲学的な思考が絡み合うところについて、できるだけ学生に自分で考えてもらいたいと思って授業を運営しています。
総合学域群の令和4年度春季ガイダンスでお話しした「肥満と法哲学」もまさにそうしたことを念頭に、海外や日本の研究者が面白いけれど大事な話をしているなあ、と思って整理と私の展望をお示ししました。結果として某燕球団が素晴らしいというのを宣伝するところもありましたね(笑)。球団について言っておいたほうがよいかな、と思うのですが、私は応援したい球団を<選択>しています。どういうことかというと、われわれはある程度社会的に規定されている生き物なので、例えばある球団のファンとして育てられる、といったことは受け入れるしかありません。でも、選択する、あるいはせめて自分で何が良いか決める契機についても、強調しておきたいのです(私は虎から燕に意識して移りました)。例えば、私も今日部屋に入って最初に伺ったのは、このインタビューに来てくださった学生さんがどういう経緯でいらしたか、でした。ガイダンスでも、パネルの教員4名が全員男性ということになってしまいましたから、はじめにどういう形で来ているのか、簡単にお話ししたり抜け落ちたりするものを少し問いかけました。この関連でいうと、最近は、マネル(言葉を提示するのがほぼ男性だけの空間)という言葉も知られて、問題視されることも多くなりましたが。
ご自身のあり方について、ご自身のあり方を規定しているものについて、いまある場について思考していただく、というのを大事にしていただければと思います。私自身も今、春季ガイダンスや自分が担当している授業が何を排除していたのか、考えざるを得ないと思っています。「法学概論」はオンデマンド授業でしたが、私の語りの仕方や、授業内容が何を排除していたかについてです。私と関わる学術分野では、マッチョな雰囲気が強いところも多く、そうではないあり方を示していかないといけないと思っています。授業でも、できるだけ対等な態度を示していければと思っているのですが…。
研究したいことを見つけるためには、何が必要なのでしょうか。どう研究生活をプラニングすればいいのでしょうか。
文系であれば、どんな分野でもでしょうが、自分で考える態度でしょうか。少なくとも文系については、師匠について弟子が育つ、そういうモデルは前提にしない方がいいです(そこでの師匠がアカハラ体質のセクハラ教員だったら大変ですから、よいことだと思います)。
そのためには、偶然の出会いを大事にしたり、あり方を内省したりして、ご自身がコミットメントを持つことを見つけてそこから自分で考えていくのが大事なのだと思います。研究の楽しさとか、知的好奇心とかを強調する先生もいらっしゃいますが、私はそれらには色々問題があると思っています。そうではなく、自分が関与しなくてはと駆り立てられることを見つけるのが大事なように思っています。学問と関わる生活でいえば、戸田山和久『論文の教室』などから研究倫理上最低限やってはいけないことを確認してもらいつつ、あとは無理にプラニングせずに、やっていることの意味を問い直しながら、大事だと思うことをしていけばよいのではないでしょうか。プラニングしても、プラン通りに人生が進むわけがないので、そういう発想があまり好きではありません。
先生の研究分野に必要と思われる素養について教えてください。
先ほどの自分で考える態度をまず挙げたいと思います。もちろん、できないといけないこともあります。例えば、かつてJ・S・ミルは『大学教育について』でラテン語とギリシャ語くらいできないとまずいよ、と言っていましたが、今だと英語能力は、間違いなくどんな分野でも必要です。
でも、素養とか能力より、責任を取れることは何かを考えながら、大事と思うことを考える、という態度をもっていっていただきたいのです。知らないことで責任を問われることもあれば、放言のような形で関与することで責任を問われることもあるでしょう。例えば、今私はデニ・ムクウェゲという医師による『The Power of Women』という本を持ってきていますが、この本が提起することの一つは、「スマートフォンの中に入っている鉱物はどこで取れたものなのか、あなたがもし知らないなら、あなたは紛争鉱物の購買を通じてコンゴ民主共和国における性暴力に加担しているかもしれない」ということです。知らないということの責任です。あるいは、すでに色々な人が大事に参与してきた実践に対して、上から裁断するような態度や、ヒエラルキーを作るような態度で言葉を発していくのは、かなり問題をもちます。自分の責任を考えながら、言葉を紡いでいってほしいのです。
関連して、いくつか言えそうです。第1に自分の考えを変える勇気が必要です。あまり好きにはなれないおじちゃんですが、プラトンが描くソクラテスが言うように、自分が変わる可能性を認識しておくというのが大事かなと思います。議論とか言葉だけではなく、自分の経験から変わることもあるでしょう。そうやって自分が変容しうるということを大事にしておくのが、重要なのかなと思います。
第2に、私は必ずしも常になんらかの意味での対話が大事だと思っているわけではないのですが、人の言葉を聞く能力はとても大事かなと思っています。他の人と同じ事象を見た時に、どういう風に考えられるのか、あるいは他の人のパースペクティブからもその物事を見られるか。なんにせよ、他者を大事にするというのは、重要な能力になってくるかなと思っています。
この研究分野に入る前はどのような学生だったでしょうか。どうして研究の道に入ったのでしょうか。
私の高校時代には、小遣い稼ぎに日雇いのアルバイトを受験勉強の間にしていました。皿洗いとか運送の荷物詰めとかですね。当時は、ワーキングプアという言葉が知られ始めて、非正規労働者の労働環境の問題も指摘されていた頃でした。そこから労働問題に関心を少しもっていて、バカだったので、世の中変えるなら政治だろ、ということで安直に政治学科(早稲田大学)にいきました。学部時代は、今は違うと思いますが当時の早稲田生では一般的だったように、授業にはあまり出ず、サークル活動やアルバイトをしたり、議員の事務所でインターンを少ししたりしていました。議員の先生は、とても尊敬もしていたのですが、ただ、毎朝演説などで話す内容が同じなのです。もちろん、だからこそ信頼される側面もあります。ただ、私の性格的なことなのでしょうが、もう少し考えてみたいと思ってしまいました。そんな頃、本に出合ったこともきっかけかもしれません。ハンナ・アーレントの『人間の条件』という本を主に使いながら、私が大事だと思っていた公共的問題について語るような本をたまたま読みまして、感銘を受けてしまった、ということが、もう少し勉強したいな、と思ったきっかけだったように思います。いいことだったのか悪いことだったのかはわかりませんが。
筑波大の好きなところを教えてください。
とにかく学生ですね。公共政策に関する大学院での担当授業だと、少し難しい政治哲学分野の本を読みます。学生さんは全員留学生ですし、私も得意ではないながら英語で言葉を交えていますが、意味を見出してくれる学生さんがいてありがたいことです。教員の立場ですから持つべき責任は私が持ちますが、学生さん相互で、あるいは学生さんと教員とも、対等な関係を維持することから信頼関係が育まれているのかなと個人的には思っています。偉そうなものなんて信頼できないでしょう?信頼のある空間になったかな、と思う時には喜びを感じています。学類のゼミでも、シラバスでたくさん読んでたくさん考えるよ、と示しているので、そういうことが難しい学生を、事前に排除することになってしまっている側面もあり申し訳なく思うのですが、でも、自分で考える学生さんを大好きで大事に思っています。
哲学のような、何か難しい文章を読む時に心がけるべきことはありますか。
読まなくともいいのではないですか?難しいと感じる際には、読まなくては、という思いとか必然性が湧いていないことが多いのではないでしょうか。単位を取る必要があるなら、うまいこと先生がAとかBとか単位をくれそうなレポートなど書くのを目指して対処すれば良いと思います。そうではなく、本当に考えるために大事と感じて読みたいけれども言葉が響いてこない、ということだったら、難しい本を読むのは私も正直苦手なのですが(笑)、偉そうにアドヴァイスを。まずは、論理構造を抜き出して自分の言葉で定式化してみるといいかなと思います。大学受験の国語の先生も言いそうなことですが。なんにせよ、なんのために読むのか、ということを意識するといいのだと思います。たぶん、自分で考えるためでしょう?
日本語で考えるのと英語で考えるのとどちらが考えやすいものですか。
ものによります。私も先日、ルーマニアの学会に招かれて行ってきたのですが、人間の尊厳と人権の関係について、概観的なものを話してくれということで、その方が速かったので、プロットから論文まで全て英語で準備をしていました。ただ、私の場合は基本的に、自分には難しいことは日本語で考える方がはるかにマシに考えられます。書いてきたものもほとんどが日本語ですし。在外研究を経るたびに、あるいは英語で授業をするようになってから、英語で考えるのも多少楽になりつつありますが、どうやっても日本語母語者です。もっと真面目に英語を勉強しておけばよかったと思っています。
先生が学ばれてきた諸大学と比べて筑波大学がよいと思うところを教えてください。
都内のマンモス大学では大人数の授業がメインだったので、やっぱり教員と学生が言葉を交わすことが難しかったという記憶があります(考えたい授業だったら授業後に質問に行っていたりしましたが)。それに対して筑波大学は、少なくとも社会学類の3年生以降は、少人数教育がウリですから、教員とも言葉を交えてインタラクティブに学ぶことができます。私なんかは、授業では学生さん相互でたくさん問い聞き、言葉を紡いでくれるので、一参加者として聞いて考えられるのがとても幸せです。学生間や、教員との近さというのは学生さんにも大きなメリットとなりうると思います。危ない側面もあるでしょうが。

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人文社会系 助教 木山 幸輔 (インタビュー学生と撮影)
人文社会系 助教 木山 幸輔
  • 写真:上野 修平 /筑波大生デジタルフォトコンテスト